【歴史】山梨の城を巡る、歴史探訪の旅へ!
今回は、甲斐の国・山梨でおすすめの城のご紹介です。
全国的にも有名な城から、あまり知られていない城跡まで、今回は3つの城に厳選してご紹介させていただきます。うち2つは完全な城跡であり、城郭は残っていません。しかし、城の歴史を知ったり、ほんのわずかに残っている遺構を実際に見ることで、今はなき城の姿や当時の武士たちに思いを馳せることができます。ぜひこの記事を参考にしていただき、山梨の歴史ロマンを感じる旅をどうぞお楽しみください。
目次
①勝山城跡(都留市)
都留市の北部に、「城山」という標高571mほどの山があります。頂上からは都留市街地を一望することができ、都留では「お城山」と呼ばれ親しまれています。
そんな城山には、かつて「勝山城」という山城がありました。
勝山城の歴史
勝山城は、「甲斐国志」によると、1594年に、豊臣秀吉の臣下であった浅井長政の家老・浅野氏重によって築城されたとされています。しかし、最近の研究によって、戦国時代の郡内領主であった小山田越中守信有が中津森から谷村に館を移した時に、要害城として築城に着手したと考えられるようになりました。
勝山城跡に残されし遺構の数々
勝山城のあった城山は、北と東を桂川の渓谷が深く削り、西のみが峰続きとなっています。桂川が天然のお堀として機能したほか、山頂の本丸を中心に北・東・南の三方の尾根筋に曲輪がありました。二の丸と三の丸は南の尾根上に階段状に並んでいます。
二の丸から本丸に登る右側正面には、綺麗に面取りされた石垣が土の中から顔を覗かせています。勝山城の石垣は近世城郭に用いられた打ち込みはぎ積みによるもので、今もなお、石垣の多くは土の中に眠っているのです。三の丸の右手に連結されている帯廓は、城内の兵力の移動のために築かれたものです。帯廓にある石積みは当時の城壁に使われていました。
その他、外堀や内堀、土塁や櫓台も認められ、江戸時代の秋元氏の時代に鉄砲の火薬を保管したという焔硝蔵(えんしょうぐら)跡、茶壷蔵跡*などもあります。
勝山城は、1704年の当時の谷村藩主であった秋元氏の転封により廃城となってしまいましたが、今もなお多くの遺構が綺麗に残っており、お城ファンには見逃せない山城です。ぜひ足を運んでみてください。
*茶壷というのは「茶壷道中」を指します。茶壺道中とは、京都の宇治で作られたお茶を将軍家御用として江戸城へ運ぶための恒例行事で、この一行を御茶壺道中と呼びました。
『ずいずいずっころばし ごまみそ ずい 茶壺に追われて とっぴんしゃん ぬけたら どんどこしょ・・・』
日本に伝わるわらべうたの「ずいずいずっころばし」の歌詞に出てくる「茶壷」は、まさにこの茶壷を指します。保存技術の進んでいない江戸時代、お茶を湿気と暑さから守るため、夏の間の保存地として、勝山城が選ばれました。
②岩殿城跡(大月市)
*岩殿山の写真
最後に、大月市にある岩殿城跡をご紹介します。
岩殿城は、岩肌をむき出しにしてそびえ立つ巨大な岩山「岩殿山」に築かれました。東京スカイツリーと同じ高さである岩殿山(標高634m)は、急峻でけわしい断崖をめぐらし、その山頂に築かれた岩殿城は難攻不落を誇る名城でありました。
岩殿城の歴史
岩殿山は平安時代に天台宗の岩殿山円通寺として開山したのがはじまりと言われており、13世紀には修験道の山として栄えました。正確な築城時期は定かではありませんが、戦国期武田氏に属していた小山田氏が相模・武蔵方面の守りとして岩殿山に城郭を築きました。
天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍が甲斐に侵攻した際、武田勝頼は真田昌幸の進言を退け、「真田は当家に仕えてまだ2代、うっかり信用するのはいかがなものでしょう。いざというときにはこの小山田の岩殿山城にお越しになるのがもっともでござる」云々と言った小山田氏に頼んで岩殿城へと行軍していました。しかし、小山田氏は勝頼を裏切り反乱を起こします。勝頼は岩櫃城へと転進することも敵わずに、天目山で自害しました。武田氏の滅亡です。
岩殿城の見どころ
岩殿城一番の見どころは、なんといっても「揚城戸跡」でしょう。揚城戸とは扉が上下することで開け閉めして通行できるタイプの門で、大きな岩の間に門が築かれていました。岩殿城では第2の関門とも呼ばれ、巨大な自然石を利用して城門を築いていたようです。
本丸のあった岩殿山の山頂には、現在は通信アンテナが立っています。昔も「烽火台」があったようで、現在と同じように通信の中継地点として機能していました。その他、揚城戸の番兵の詰所で雨露をさけるための建物があったという番所跡や、馬や兵士の訓練場であり岩殿城で最も広い面積を有する場所である馬場跡、馬や兵士の水浴・飲料水に使ったという用水地などもあります。
岩殿山は岩山ですが、登山道がしっかりと整備されており、登山客に人気の山です。ぜひ一度お越しください!
③甲府城跡(甲府市)
「甲府城」は、山梨の城と言えば一番に名の挙がる、山梨に来たら一度は訪れたいお城です。別名・舞鶴城とも呼ばれ親しまれている甲府城は、日本100名城に選ばれており、毎日多くの観光客で賑いを見せています。
20haほどの広大な城郭を持っていた甲府城は1873年に廃城となってしまいましたが、現在甲府城跡は6haほどの舞鶴城公園として開放されています。公園内には鉄門(くろがねもん)や稲荷櫓(いなりやぐら)などが復元整備されており、当時の様子に思いを馳せることができます。
甲府城の歴史
甲斐国と言えば、武将・武田信玄の名が一番に挙がると思われますが、実はこの甲府城を気づいたのは武田信玄ではないんです。
天正10(1582)年に甲斐・信濃を支配していた武田氏が滅びると、甲斐は織田信長の領国となりましたが、本能寺の変後、甲斐は徳川家康の支配下となりました。しかし、その後豊臣秀吉が天下統一を果たし、豊臣政権の重臣浅野長政・幸長親子らによって一条小山と呼ばれる丘陵地に甲府城が築かれました。
織豊期の特徴である金箔が押された瓦などが発見されていたり、織豊系城郭の特徴である高い石垣が城全体に築造されていたりする点で、その歴史が裏付けられています。ちなみに、石垣は「野面積み」という石積み方式で積まれています。近世城郭における石垣造りの歴史の中でも「野面積み」は大変早い時期に築城された城に見られる石垣で、必見です。
お食事やお土産の購入はぜひ道の駅つるでどうぞ!
以上、山梨でおすすめの城をご紹介しました。いかがでしたか?
勝山城跡のある都留市と岩殿城のある大月市は隣り合っているので1日2日をかけて城めぐりをしてみるのもいいかもしれませんね。また、勝山城跡のある城山、岩殿城跡のある岩殿山にはそれぞれ登山ルートが整備されていますので、登山を楽しみながら、歴史に触れることができます!
今回紹介した勝山城跡と岩殿城のちょうど中間地点に「道の駅つる」はございます。富士急行線禾生駅から徒歩約15分の場所にある当施設には、登山前の腹ごしらえにぜひ食べていただきたい美味しい定食をご用意していますので、ぜひ皆さんお越しください!
こちらは、当店名物「富士湧水ポーク」を使用したステーキと、都留市産の「じねんじょ」を味わえる定食となっております。都留生まれのブランド豚を思う存分味わえる贅沢な一品です。
また、信玄餅をはじめとした山梨のお土産も多数ご用意しております。ぜひ一度お越しください。
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この記事を書いた人
はじめまして!ライターのななかです!記事をお読みいただきありがとうございます!都留ってどこにあるんだろう、一体どんなまちなんだろう、そう思われた方が多いでしょう。たくさん都留の魅力を発信していきますので、少しでも都留について知っていただけたら嬉しいです!記事を読んで都留に興味が湧いた方はぜひ一度お越しください!お待ちしております!